天動説について

先日、友人と北海道の田舎道でのツーリングを楽しみました。日が暮れて真っ暗になったころ、 前を走っていた友人が急に路肩に停まりましたので、何かトラブルかと思い、続いて停車しますと、 彼はバイクを降りて空を見上げていました。

それまで空には注意を向けていませんでしたから、 頭上を見上げて初めてその星の多さに気づき、息を呑みました。 私はそのとき、写真でしか見たことのなかった天の川というものを初めて目の当たりにし、 数十秒のあいだ無心で眺めていましたが、ふと「ああ地球もこの天の川の一部なのか」と気づき、 私は初めて地動説というものを感覚的に体得したような気がしました。 これまで私は地動説という当たり前の事柄を当たり前のように理解していると思い込んでいましたし、 天の川を見て「体得した」などと言い放っている現在でも、それは変わっていないのかもしれません。

さて、私たちは学校で、ガリレオ=ガリレイがキリスト教の教えになじまない地動説を主張し、 異端審問に召喚されてもその主張を貫徹したために学者としての地位を失った、という話を、 天才の悲劇として学びました。 そして同時に私たちは、彼の学者としての名誉を失墜せしめた天動説支持者たちを、 新たな考え方に対して不寛容な人々、天才を迫害した保守的な人々として軽蔑しました。

しかしそうした他者の考え方に対する迫害者としての彼らの性質は、 現代に生きる私たちに寸毫も継承されていないのか。 いやむしろ、科学の信奉者としての私たちはその性質をなお一層強めてはいないか。

ここからは、聖書を絶対的な真理の書と信じ世界の父たる神とその子を一心に信仰する「彼ら」と、 科学のもたらした物質世界の恩恵を享受しその絶対的地位を信じて疑わない「私たち」とを、 なるべく懐疑的に見比べてみようではありませんか。

そもそも私たちはなぜ地動説を真実として受容しているのでしょうか。 それは私たちがキリスト教の信者でないからではありません。 私たちが科学の熱烈な信者であるからです。 さらに懐疑的に表現するならば、私たちが「科学」を主張する人々の言説を、 盲目的に信仰しているゆえだといえます。

私たちが地動説を「科学的」だといい天動説を「非科学的」だというのは、確かに正しいことです。 しかし彼らが地動説を「非聖書的」だといい天動説を「聖書的」だというのであれば、 それもやはり正しいことでしょう。 そして、この両者にいかなる本質的優劣が存在するのか、という問に対して、 私たちは確固たる答えを持っていないのではないでしょうか。

科学者曰く聖書は非合理的な盲信であり、聖職者曰く科学は冒涜的な譫言に過ぎないのです。

ここで議論をより一般化し、「ものの見方(考え方)」という事柄について考えておきましょう。 「私たちはいかなる行為を実行するときも、何らかの方法によらなければならない」 という前提を認めるならば、同時に私たちは、 「私たちはものを見る(考える)ときに、何らかのものの見方(考え方)によらなければならない」 ということについても認めなければならないことは、容易に納得されるでしょう。 (このことの妥当性については、この文章では省略する)

その立場に立つ限りでは、私たちはいかなる事柄について考えるときも、 何らかの考え方によって考えるということを原理的に要請され、 なおかつ、それらの考え方の間の優劣について考えるときにも、 やはりある「特定の」考え方を脱することは不可能だということになるはずです。

よって、 (1)「私たちが特定の考え方に束縛されることを避けられず」、 (2)「私たちのとりうる考え方が複数種類、存在している」 ということを承認することで私たちは、 様々な命題に関する異なる言説の衝突は決して完全には免れ得ず、 またそうした衝突を真に「中立的」な方法で解決することは不可能であることを 認めざるを得ないのです。

さて、ここまでの主張が本質的にそれ自身の妥当性を限定的にしていること、 すなわち、あらゆる「ものの見方」の関係性について 包括的に結論づけているような顔をしたこの主張自身が、 筆者個人の「ものの見方」によっていることは誰の目にも明らかでしょう。 それは筆者も当然認めるところでありまして、 筆者の主張する言説に対するいかなる反論に対しても誰もが納得する反駁の方法は存在しないし、 またそれらの反論は筆者の言説を誰もが納得するようには否定しえないのです。

またこうした主張について、随分とニヒリズム的だとか相対主義的だとかいう感想を もたれるのも、やはり尤もかと思われます。 しかし筆者はここで絶対的な真理というものの有無について主張したいのではなく、 そのような真理に近づこうとする人間の「考える」という行為の限界を主張したいのです。

そうして、便宜上「私個人の見方では」という一言を省略し、 侃侃諤諤さまざまな意見をぶつけ合い、 しかし決して脱し得ない限界の中でもがき続ける私たちの「考える」という営為が、 たいへん健気でいとおしく思われて仕方がないということを申したいのです。

さあ、いよいよポエムになってまいりました。