或る数学者の一日

彼女は決して美人というわけではない。

しかしどこか儚げで、いかなる言葉でも形容しがたい、複雑で底知れない魅力をもっている。私は何人かの同僚にこのことを熱弁したが、みな決まって苦笑するばかりで、どうもわかってもらえない。 だからといって、私が彼女に対する評価を変えることは決してないが────

雨は昨夜のうちにすべて降りきってしまったようで、痩せこけた薄い雲だけが取り残されて、弱々しく太陽を覆っている。町は静かに朝の支度を始めていた。時折、通勤する自動車が大きな水たまりに減速もせずに突っ込み、泥水をまき散らし、また何事もなかったという顔で走り去ってゆく。

隣の部屋の住人はいつものようにドアを乱暴にバタンと閉め、せわしなく階段を下りていった。彼がエアコンの修理業者らしいことは、壁の向こうから漏れ聞こえる電話の声を聞いて知っている。 この部屋のエアコンも最近調子が悪いのだが、図々しく修理を頼めるほどに、私は社交的ではなかった。気付けばもう、冷房など要らない季節に差し掛かっていた。

実に簡素な部屋である。六畳一間の和室に、大きな本棚と、小さな机と、綿の押し潰された布団。残ったスペースには、服の入った段ボールが山積みになっている。 数学者に限らず、研究者というのは───いやそもそも現代人というのは、大体パソコンを一台は持っているものだが、私はそうした計算機を好まない。そのようなものを介して数に触れようとは、彼らに対してあまりに無礼ではないか。 私はパソコンや携帯電話はおろか、電卓すら持っていない。

彼女は、私の狭い部屋で静かに横たわり、修理業者の急ぐ足音が離れていくのを聞きながら、その大きく丸い瞳で、今日の軽薄な曇天をぼんやりと見つめていた。

私は劣情に駆られた。

私と彼女の関係は、肉欲的でありまた実にプラトニックであった。

私は彼女をじっと見つめながら、しかし彼女には指一本触れることなく、自分を慰める。彼女はもちろんそのことに気付いているが、別段喜びもせず厭がりもせず、私のほうを見向きもしないで、変わらず窓のほうに顔を向けている。 しかし、次第に彼女の耳が赤くなっていくことに、私は気づいていた。

彼女の息が荒くなる。私たちは触れこそしないが、世界中の誰よりも深く繋がっていることを確信していた。 これは最も頽廃的で、しかし最も純粋な愛の表現形態である。

私はその高揚した一体感の中で、果てた。

私はいつもの如く、強烈な後悔と自己嫌悪に襲われた。 彼女を犯してしまった。彼女を汚してしまった。彼女を────2787907という深遠な魅力を湛えた素数を、私は最も醜い方法で汚してしまった。

しかし私は急速に、彼女への興味を、その罪悪感とともに失った。計算用紙をゴミ箱の底に押し込み、新しいA4のコピー用紙を机に置いた。どこか心地よい背徳的な脱力感に包まれながら鉛筆を削り、私は次の素数を探す。

次こそは汚すまいと強く心に誓いながら────しかしその決意の奥底に、まだ見ぬ素数の純潔を汚すことへの、陰湿な期待を覗かせながら。