哲学対話(1) ~時間と空間はいかに異なるか~

直感

私たちは空間を自由に行き来することができるが、時間を自由に行き来することはできない。私たちは時間軸の上を一方向に進むことしかできず、戻ることは不可能である。

反論

「進む」「戻る」といった語彙は時空に対して既に中立でない。これらは時間が一方向に進むことを既に前提して、時刻t1<t2に対してx(t1)<x(t2)が成り立つことを「進む」、x(t1)>x(t2)が成り立つことを「戻る」と言っているに過ぎない。空間を「戻る」ことが可能であるのと同様に、時間を「戻る」こと、すなわち位置x1<x2に対してt(x1)>t(x2)が成り立つことも当然可能である。

再反論

因果関係は空間に対しては双方向に生じうるが、時間に対しては一方向にしか生じない。「進む」「戻る」といった観念が中立でないとしても、因果関係の観念そのものは時空の観念からは独立していて真に中立であるから、それが時間と空間に対して異なる姿を見せることは、まさしくそれらの異質性を判明に示すものではないか。

再々反論

否、因果関係の観念もやはり時間の一方向性を前提している。真に時空に中立するのはモノとモノの「関係」のみである。私たちはこの中立な関係を時間軸に射影し、時間的に前に起こったモノを原因、後に起こったモノを結果と呼ぶに過ぎない。原因が結果を一方的に生ずるという言明は、まさに時間の一方向性の観念に依存している。因果関係の不可逆性を主張することは、時間の絶対的な一方向性を何ら示すものではない。

再々々反論

実在の数的同一性についてはどうか。ある一つの実在は、同一の位置において異なる時刻に存在しうるが、同一の時刻において異なる位置には存在しえない。よし仮に空間と同様に時間にもその双方向性を認めるとしても、空間と時間の同質性に固執して実在の分裂や結合、出現や消滅が容易に生じることまでを認めることはできない。

再々々々反論

「実在」とは何を指すのか。それが「物体」を指すならば、確かにその数的同一性は時間に対して数的に変化しないことによって担保される。しかしそれは空間に対する時間の「物理的」特異性を示すに過ぎない。「ありえた」世界、すなわち私たちの世界とは異なる物理法則を持った世界においては、物体の数的同一性は空間に対する数的な安定性とみなされたかもしれないのだ。 ではありえた世界と共通に同一性が定義されると考えられる実在とは何か。それはまさに「物体」ではない実在である。しかし物体であるか否かとは、すなわち時空に存在するか否かだ。ここから当然に導かれる帰結は、実在の同一性を持ち出しても、やはり時間の形而上学的、先験的な特異性は何ら見出されないということだ。

議論の再定位

実在は時空を占めるか否か、または占めるものとそうでないものが混在するか。 占めるとすれば、または占めるものが存在するとすれば、それは時間と空間に対して真に中立であるか否か。中立でないとすればそれは必然的か否か、すなわち全てのありえた世界においても同様であるか否か。